【富士塚】西遊馬八幡神社の富士塚と消えた富士塚を歩く・指扇駅~西大宮駅(2026.08.19)
大宮駅の西、埼京線と荒川に挟まれたさいたま市西区には、いくつかの富士塚が残されています。今回は指扇駅を出発し、西大宮駅まで歩きながら二つの富士塚を訪ねました。
最初に向かったのは、西遊馬の八幡神社に残る小さな富士塚です。高さは1メートルほどですが、塚の上には明治9年(1876)の石碑が残り、富士講の信仰を今に伝えています。その後は指扇氷川神社に立ち寄り、もう一つの富士塚が記録されていた西大宮方面へ向かいました。
ところが、資料を頼りにたどり着いた場所に富士塚の姿はありませんでした。古くから残る信仰の痕跡と、宅地開発によって変わっていく郊外の風景。その両方を見る散歩になりました。
基本情報
日付:2026.08.19
天候:晴れ
コースタイム
9:55 発 指扇駅
10:07 八幡神社
10:32 荒沢不動尊
10:37 指扇氷川神社
11:07 (西大宮の富士塚)
11:31 着 西大宮駅
行程記録
西遊馬の八幡神社の富士塚
指扇駅は大宮駅から埼京線で西へ進んだ場所にあり、荒川にも近い駅です。駅前は比較的静かで、北口のテラスから西を見ると、遠くに奥多摩や秩父方面の山並みが見えました。


駅を離れて八幡神社へ向かうと、住宅の間に畑なども見られ、次第に郊外らしい風景になります。この日は朝からかなり暑く、日差しを受けながら10分ほど歩いて八幡神社に到着しました。
境内には盆踊りに使われると思われる櫓が組まれていました。小さな神社ですが、本殿の脇を見ると高さ1メートルほどの塚があり、その上に大きな石碑が祀られています。これが西遊馬の富士塚です。
塚は東西3.4メートル、南北4.7メートル、高さ0.9メートルとされ、規模としてはかなり小さなものです。現在の塚は丸みのある石を積み、コンクリートで固めたような姿をしています。現地には富士塚についての解説板はなく、知らずに訪れれば見過ごしてしまいそうです。
この富士塚は、もともと現在地から東へ約200メートルの場所にあり、昭和15年(1940)に現在の八幡神社境内へ移されたとされています。荒川の堤防にも近い場所ですが、移築の具体的な理由については今回確認できませんでした。他の塚で河川工事の都合で移転したという場所があるので、同様の理由かと思われます。








□西遊馬の八幡神社の富士塚
https://maps.app.goo.gl/BhmJCD5eQxdPLDUw5
住所 〒331-0061 埼玉県さいたま市西区西遊馬1441
所在施設 八幡神社
成立 石碑に「明治九年 子年 七月一日」
構築講 不明(丸三講との関係が考えられる)
大きさ 東西3.4m、南北4.7m、高さ0.9m
眺望 なし
登頂 不可
備考 昭和15年(1940)に現在地へ移築されたとされる。以前は東へ約200mの地点に存在したという。
本殿の軒下には繭玉も奉納されていました。「昭和七年」と記されており、周辺がかつて農村地帯であったことを感じさせます。小さな富士塚だけでなく、地域の暮らしの痕跡も残っている神社でした。

後からわかったこと――「丸三」の印と大先達
現地では詳しく分かりませんでしたが、帰宅後に石碑の写真を確認すると、いくつか興味深いことに気付きました。
碑の上部には、丸の中に漢数字の「三」を入れた印があります。富士講では講ごとにこうした講印が使われており、埼玉県内には「丸三講」と呼ばれる富士講が存在していました。このため、西遊馬の富士塚についても丸三講との何らかの関係が考えられます。ただし、西遊馬に丸三講が存在したのか、別地域の丸三講と交流があったのかまでは確認できていません。
碑面には「木花佐久夜毘賣命」のほか、富士講に関係する神仏や行者の名とみられる文字が刻まれています。また、「大先達 平賀吉兵○」と読める部分もあります。「大先達」は富士登拝を重ねた富士講の指導者に使われた呼称です。
裏面には「明治九年 子年 七月一日」とあります。明治9年は1876年の丙子にあたり、7月1日という日付も富士山の山開きとの関係を感じさせます。
高さ1メートルにも満たない小さな富士塚ですが、石碑を詳しく見ることで、かつてこの地域にあった富士信仰の姿が少し見えてきました。
指扇氷川神社
八幡神社を出て、西大宮駅方面へ歩きます。交通量の多い道路へ出るまでは、水田や畑の残る低地を進みました。
指扇氷川神社へ近づくと、それまで平坦だった道がわずかに上り坂になります。途中には弁財天と荒沢不動尊があり、そこからさらに上った先に氷川神社の鳥居が見えてきました。




神社は大宮台地の端に位置しています。境内の由緒書きにも「大宮台地の突端部に低地を見渡すように鎮座」とあり、実際に歩いてくると低地から台地へ上がったことがよく分かります。現在は周囲に住宅が増えていますが、かつては西側の低地や農地を見渡せる場所だったのでしょう。
この日はかなり暑く、ここまでの道には日陰がほとんどありませんでした。そのため木々の茂る境内に入ったときの涼しさが印象に残りました。






本殿の裏手にはアジサイが数多く植えられています。花の時期にはアジサイの名所として知られているようですが、8月下旬なので花はすでに終わっています。その代わり、境内ではサルスベリの鮮やかな花が目を引きました。



西大宮の富士塚
指扇氷川神社を出て、今回二つ目の目的地である西大宮の富士塚へ向かいました。


事前にさいたま市の資料を参考にして場所を調べ、Googleマップ上におおよその位置を保存していました。ところが現地に着いてみると、そこに富士塚らしいものはありません。残っている草藪の中にあるのかと思い、周囲を一周して探してみましたが、それらしい塚や石碑は確認できませんでした。
周辺を歩くと「大乗妙典六十六部供養塔」と刻まれた石造物が残っています。しかし、目的としていた富士塚は見つかりません。



西大宮駅周辺では現在も宅地開発が進んでおり、この付近にも新しい住宅が数多く建っています。Googleストリートビューの2018年8月の画像を見ると、かつてこの場所には鳥居が確認できます。また、航空写真では2022年11月8日の時点では富士塚があったとみられる場所に林が残っていますが、2023年10月24日の画像では造成が進んでいます。
これらを考えると、富士塚は近年の宅地造成に伴って姿を消した可能性が高そうです。ただし、石碑などが別の場所へ移された可能性もあるため、現地で確認できなかったことだけをもって完全に消滅したとは断定できません。



古い資料には記録されているのに、現地へ行くとすでに姿がない。富士塚巡りでは、残された史跡を見るだけでなく、このような変化に出会うこともあります。西大宮駅周辺の新しい街並みを歩いていると、郊外の景観が短期間で大きく変わっていることを実感しました。

後からわかったこと――かつての浅間塚
後から確認すると、富士塚は今回訪れた場所にあったと考えられます。過去の調査では東西約5.9メートル、南北約8.2メートル、高さ約1.5メートルの塚とされ、西遊馬八幡神社の富士塚より一回り大きなものでした。
また、かつては稲荷社のそばに塚があり、富士信仰に関係する石碑も祀られていたとする記録があります。西大宮駅周辺は土地区画整理によって地番や街区も大きく変化しているため、古い所在地だけを頼りに現在の場所を特定するのは簡単ではありません。
今回の現地確認では塚を見つけることができず、航空写真でも近年造成されたことが確認できました。現状では「宅地造成により消滅した可能性が高い」と考えています。石碑や祠の移設があったかについては今後の調査課題としたいと思います。

まとめ
今回は指扇駅から西大宮駅へ歩き、西遊馬八幡神社の富士塚と、西大宮に記録されていた富士塚を訪ねました。
西遊馬の富士塚は高さ1メートルにも満たない小さなものでしたが、明治9年の石碑が残り、上部には「丸三」の講印とみられる印も確認できました。現地では何気なく見ていた石碑も、後から写真や資料を調べることで、富士講とのつながりが少しずつ見えてきます。
一方、西大宮の富士塚は現地で確認できませんでした。わずか数年前の航空写真には林が残っているのに、現在は宅地造成が進んでいます。古い史跡が残る場所と、急速に姿を変える場所。その両方を一度の散歩で見ることになりました。
指扇氷川神社では大宮台地と低地の境目も体感でき、富士塚だけでなく地形や地域の変化にも目を向けることのできた散歩でした。
参考情報
今回はさいたま市の塚調査資料を参考に歩いています。
