赤塚諏訪神社富士塚  富士塚は、一般的には、富士山へ登拝することを目的 に組織された「富士講」の人びとによって、富士山を模 講が爆発的に広がった十八世紀以降に、各地で盛んに造 して造られた、ミニチュアの人造富士山のことで、富士 られました。  富士塚の特色は、山麓から山頂にかけて登山道を模し た道を設け、それに治って石碑を配して、富士山各所の 礼拝所を表現していることや、「黒ボク」と呼ばれる富 士山の溶岩石を取り寄せ、使用している点にあります。  また、富士塚への登山自体が、富士山登拝と同様の御 利益があるとされています。なお、各地の富士塚では毎 年七月一日前後に、富士山の山開きに合わせた祭礼が行 われている所もあります。  当富士塚を造成した富士講「丸吉講」は、新座郡中沢 村(現在の新座市)出身の浅海吉右衛門が開いた講中で す。当地(旧下赤塚村)へと丸吉講が伝播した時期につ いては、詳らかではありませんが、和光市白子熊野神社 境内の富士塚にある、明治三年(一八七〇)に奉納され た鳥居には、他地域の丸吉講の講中とともに下赤塚の人 びとの名が見られることから、それ以前の幕末期には当 地に伝播していた可能性が考えられます。 また、この富士塚の造成時期については、志木市敷島 神社の境内にある「田子山富士」へ奉納された明治五年 の「丸吉講新富士百三十三所奉納額」に、「下赤塚仙元 富士山」と表記されていることから、それ以前の段階だ と考えられます。 当富士塚は、平成二十二年度、区の登録記念物(史跡) となりました。 平成二十三年八月 板橋区教育委員会